廃兵院工房

旅行の思い出とか呟きます。昼からビールを飲める仕事につきたい

「リボンの武者」に見る〝和解〟

※ネタバレ含むので5巻を読んでね

 

いわゆるガルパンのスピンオフ作品「リボンの武者」には、フランスを模した高校が登場する。その名も自由BC学園。もともと自由学園とBC高校の2校が存在し、それらが統合された結果として自由BC学園が成立するのだが、未だに旧自由派・旧BC派間に遺恨が残っているという設定である。どう見ても自由フランス運動とヴィシー政権を準えているのだけれど、登場人物もまたネタに走っている。

自由派の「アスパラガス」というケピ帽を被った金髪少女が、自由BC学園戦車道部の隊長。自由フランス運動を率いたシャルル・ドゴールの渾名がその風貌からアスパラガスであったことと、偶然の一致ではあるまい。またアスパラガスと反目し合っているBC派の黒髪目隠れ少女は「ボルドー」なる名前。第二次大戦中フランス政府がボルドーに臨時首都を置き、ヴィシー政権誕生のキッカケとなるペタン内閣の組閣がこの地で行われたことを考えると、これまたある種のネタではないかと疑ってしまう。

「リボンの武者」5巻で自由BC学園は、黒森峰を相手に主人公ムカデさんチームと共闘することとなる。戦闘序盤でアスパラガスは友軍の撤退を支援するために殿を務め、呆気なく撃破されてしまうのだが、彼女は被弾の間際に「母校万歳」と叫ぶ。この台詞は自由派生徒のみならずBC派の心にも響き、互いに反目を忘れて仏国歌・ラマルセイエーズを歌うという描写が入る。さすがのおじさんもドンビキ満足の名シーン。カサブランカも何のその。

 

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さて。詳細な戦闘経過は省くが、その後、民家への放火と囮による欺瞞作戦を受けた黒森峰は、自由BC学園・ムカデさんチーム連合部隊の包囲を企図して別働隊を組織する。エリカ率いる本隊はムカデ等の撃破に成功。しかし、その一方で別働隊は、今まで息を潜めていたボルドー率いるBC派・自由派混成部隊の第五共和制小隊」によって殲滅されていた。3輌のM22ローカストで構成された「第五共和制小隊」は、残存するエリカ車以下黒森峰2輌に突撃。見事勝利を勝ち取るという筋立てである。

まずこの展開が面白い。自由派であるアスパラガスの犠牲を経て、BC派のボルドーが勝利を決定付ける。この構造は、所属は逆であるが「ペタンは盾であり、ドゴールは剣であった」というヴィシー(ペタン)擁護派が歴史的に語っていた言葉と重なる。つまりここでは「アスパラガスは盾であり、ボルドーは剣であった」になるだろう。*1

また作中で度々登場する、自由派・BC派間の和解を示唆する場面にも注目したい。4巻の「結婚」作戦*2と戦場視察における描写*3で、その要素が読者に示されている。5巻ではアスパラガスが被撃破時に叫んだ「自由BC学園万歳」の台詞と国歌斉唱の場面が、まさに和解を象徴していると言えるだろう。

あくまで私的な妄想に過ぎないが、2巻における敗戦によって自由派・BC派間の和解が始まり、そして5巻におけるアスパラガスの犠牲で和解が完了したといえるのではないだろうか。この和解という単語は、仏近現代史を眺める上でも度々登場する。第二次大戦中、フランスは休戦を受け入れたヴィシー派と継戦を選択した自由派に分断されてしまい、戦後もこの問題を抱え込むことになった。ようやく祖国は一つになったが、国民は未だに統合されていないという状況が生まれたのである。この問題を解決するべく、終戦からまもなくして言論界から国民間の和解を求める声が上がった。段々とこの和解希求が高まりをむかえるにつれ、戦犯として処されていたヴィシー派の人々が早期釈放されるという結果に繋がっていく。こうした史実を頭の隅に置きながら5巻を読むと、自由派・BC派の統一を体現している第五共和制小隊」が、ドイツを連想させる黒森峰を打倒するという構造は、まさに〝和解〟を象徴するシーンの様に思われた。いや、恐らく絶対そんなことはないし、考え過ぎだろうけれど。きもちのわるいヲタクの典型みたいな所業をしてしまった。

 

いろいろと申し上げたが、世間はボル×アス推しですが、私個人としてはアス×ボルの掛け合わせこそ最高という話でありました。

*1:引っ張り出しておきながら恐縮だが、この「剣と盾」理論(Théorie du glaive et du bouclier)は現在史学の場では一般的に否定されている。要するにナチの搾取に対して、ヴィシー政権が盾の役割を果たしたどころか、時期によっては寧ろ対独協力を率先していたという事実がアメリカの研究者によって明らかにされたためだ。尤も学会の常識は世間の非常識という話は、フランスでも同じらしく、未だに高齢者を中心に「剣と盾」理論を信じている層も少なくないらしい。

*2:自由派・BC派部隊間の連携強化、並び「第五共和制小隊」の新規編成を目的とする

*3:ボルドーを肩車しようとするアスパラガスという萌えシーン。アスパラガス嬢曰く「政治的判断」とのこと

日本海軍の基礎を作ったのは

オレンジペコ日本海軍の基礎を作ったのは、どこの国か御存じかしら?(似非ジョンブル)

 

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先日、日仏交流史・外交史を長年研究している仏人と話す機会を得た。

 

以下、会話抜粋

 

日本海軍の基礎を作ったのは、どの国か知っていますか」

「イギリスでは」

「(やれやれという顔付きで)違います。横須賀海軍工廠建造の指導した人物を御存知ですね。そう、レオンス・ヴェルニーです。エミール・ヴェルタンはご存知ですか」

「はぁ、名前だけは」

ヴェルタンは日本海軍に2つの足跡を残しました。先ず黄海海戦の勝利に繋がる日本海軍艦艇群の設計と建造です。彼はジューヌ・エコールの支持者であり、大型艦艇を時代遅れと見做し、強力な武装の小型艦艇の量産を主張しました。海戦の後、伊藤サン(伊藤祐亨のことであろう)がヴェルタンに感謝の意を伝えていたのは有名ですね」

「(#有名ではないと思う)」

「そして何より、ヴェルタンの功績は日本海軍の重要な根拠地を策定したことにあります。彼は佐世保と呉に海軍工廠を築きました。横須賀は太平洋、佐世保東シナ海、呉は瀬戸内海。日本の国防事情を配慮した配置であることは一目瞭然です」

 

また

 

「日本空軍(ママ)の基礎も、フランスが作ったことをご存知ですか」

「それは知りませんでした」

「徳川大尉の飛行は1910年ですが、1918年に空軍士官を中心とした軍事顧問団が派遣されます。これは西園寺公望が友人であるジョルジュ・クレマンソーに依頼したことがきっかけで実現しました。クレマンソーは一次大戦に日本が参戦してくれた恩返しとして、軍事顧問団の派遣を無償で応じたのですね」

「余談ですが、西園寺は留学時代に下宿先が同じだったことでクレマンソーと仲良くなります。その二人が後に国家の最高指導者になったというのは、奇遇という他ありません」

「さてヴェルサイユ会議の場で、クレマンソーと西園寺は再び顔を合わせます。西園寺は牧野サン(牧野伸顕)に交渉を任せ、時折会議から抜け出すクレマンソーと遊ぶことを楽しみにしていた様です。」

 

等など。

正直発言には怪しい所も多い。

20年ぶりに渡仏した西園寺は、フランス語を話すことが出来なかったという話がある。

また軍の基礎を作ったという話は、人か物か云々、着目点によって大いに評価が異なる話であろう。分かっている。分かっているけれど、おじさんは文句を言わなかった。

そりゃあ気概のあるヲタクならば指摘したかもしれない。

 

しかしこの老研究者はレジオンドヌール受章者である。

Le Mondeに「この分野の泰斗」と絶賛されている人物である。

 

無理です。権威には積極的におもねっていく所存です。

 

ということでまた何か話を伺う機会があれば記したいと思う。

なお当人は日本語が上手ではないので、ブログの文はかなり意訳している。

 

ごめんね。でも出来る限り伝えたいであろうことを表現したから許してね。

そりゃあ仏語で聞けば良いのだろうけれど、仏語でまくし立てられても分からないもの……

[廃兵院(L'hôtel des Invalides)]フランス・ミリタリー旅行記

 時は17世紀、職を失った傷痍兵の存在はフランス社会を不安定にする一因であった。そこでルイ14世は傷痍兵を収容する施設、「廃兵院(L'hôtel des Invalides)」の建造を命じる。35年もの年月を経て、1706年にようやく廃兵院は完成し、今に至るまで多くの傷痍兵を収容してきた。

 

 尤も現在の廃兵院は、病院としての性格は薄れている。その敷地の大半は軍事博物館として開かれており、優れた立地的にも展示施設の充実ぶりからも、ミリタリー趣味者必見の名所といえるかもしれない。地下鉄Invalides駅に降りれば、黄金のドームはすぐに目につくはずである。

 

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 正面広場にはフランス式大砲コレクションが展示されており、広場を囲う様に各時代毎の展示室が配置されている。チケット売り場では有料で音声案内(日本語あり)を借りることが出来るが、なにぶん展示量が凄まじい。とてもではないが解説に耳を傾けつつ、全ての展示を回るのは不可能だろう。各部門毎の展示が地方博物館まるごと1つのレベルなのだ。そんなわけで虚弱な自分は、第一次・第二次大戦部門と近代部門、ならび新たに開設されたレジスタンス記念館を回るので精一杯であった。

 

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(中央広場)

  第一次・第二次大戦部門の部屋は著名将軍の名前が割り当てられており、例えばSalle FochやSalle Lattreといった具合である。Salleはフランス語で言うところの「間」らしいので、「フォッシュの間」や「ラトルの間」ぐらいの認識で良いのではないだろうか。

 大戦部門の各所は軍服・軍帽、銃・火砲、戦争絵画に現物車輌やらが辺り一面を覆い尽くしており、その光景は圧巻の一言に尽きる。なおほとんどの展示物には英語の注釈があるので、仏語に弱い人間にも優しい。

 展示物の中でもパリから前線まで兵士を送り届けたことで有名なマルヌ・タクシーや、ジョッフル、ペタン、フォッシュの三元帥が着用した礼服、ドゴールがBBCで用いたラジオマイクには目を奪われた。

 

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 順路に従って博物館の区画を抜ければ、ドーム教会の正面に出る。ドーム教会中央にはナポレオン1世が眠り、その周囲にはナポレオンの親族やフォッシュ将軍等の著名な軍人の棺が横たわっている。軍事博物館のチケットで入場可能なので、博物館と併せて忘れずに訪れたい。

 ところでこのアンヴァリッド寺院、第二次大戦中に破壊の危機に瀕したことがある。「パリは燃えているか」で有名な1944年のヒトラーパリ破壊命令には、この寺院も爆破対象に含まれていたのである。通説通りノルドリンク大使の努力が実ったためであろうか、それとも単にコルティツ将軍が保身を図ったためだっただろうか、幸いにも市内に設置された2トンもの爆薬が起爆されることはなく、このアンヴァリッドも無事生き延びることとなった。

   1940年にはナポレオン信奉者であったヒトラー自身が、ナポレオン2世の遺骸をアンヴァリッド寺院の地下聖堂に移送する様命じていた一件と本件を考え併せると妙な心境に至る。ナポレオン2世も父と再開させてくれた恩人の手で、木っ端微塵にされかけたと黄泉で微妙な顔を浮かべているに違いないが。

 

次回はユー島を取り上げます。
大西洋を渡り、フィリップ・ペタンの墓と現地の歴史博物館を訪れました。

 

※ドーム教会の脇には、観光客進入禁止の看板がある区画がある。これは現役の「廃兵院」であり、現在もなお傷痍兵を収容している。余談であるが、区画内で車椅子の老人がナースに運ばれている光景を見掛けた際に、かのモーリス・ガムラン将軍がここで死去したことを思い出した。ガムランレジオンドヌール勲章最高位のグランクロワを受章しながらも(グランクロワ受章者は慣例として国葬で送られていた)、1940年の敗戦の責任者であるが故に政府から国葬を拒否されるという悲劇的な逸話がある。もし大戦の事情が違えば、ドーム教会に彼の棺も並んでいたのかもしれない。

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[はじめに]フランス・ミリタリー旅行記

 大戦期のフランス軍好き、というのはミリタリー趣味者の中では少ない部類ではないだろうか。

 それにはこういった事情があると思われる。フランスは第一次世界大戦では主役の座を担ったが、我が国のミリタリー趣味者の多くが興味の対象とするのは第二次世界大戦である。その第二次世界大戦で開戦劈頭敗戦を迎えてしまったがゆえに、「フランス」というネームバリューとは見合わぬ冷遇ぶりを受けてしまっている感がある。

 かつて某漫画の影響もあって不当に貶されていたイタリア軍が、一部研究者の尽力によって昨今正当な評価を受けつつあるのに対し、未だにフランス軍は「梅毒」や「マジノ線」の語ばかりが先行しているというのが現状ではないだろうか。単に隣の芝生は青いだけなのかもしれないし、イタリア軍趣味者の方にはお叱りを受けそうだが。

 そんな被害妄想じみた愚痴はさておきとして、インターネットで日本人のミリタリー旅行記を検索してもドイツやロシアはよくヒットするのだが、フランスの場合は余り見付からない(例外的にtrip adviserの口コミには大変お世話になった)。仮に日本人が史跡を訪れていたとしても大学研究者や歴史趣味の老夫婦というケースが多く、ミリタリー趣味者の視点に立ったレビューはほぼない様に思われる。

 そこで拙い文章ではあるが、昨月フランスに滞在した際に回った史跡の写真と感想などを本ブログで掲載していきたい。かなり自分の趣味で旅程を組んだため、旅行の参考にはなり辛いとは思うが、このページを読まれている方にとって何らかの役に、もしくは暇つぶしになれば幸いである。

 

以下掲載予定

アンヴァリッドパンテオン、国立海洋博物館、ユー島歴史博物館、ソミュール騎兵博物館、ソミュール戦車博物館、コンピエーニュ休戦記念館、コンピエーニュ城、ヴェルダン記念館、ドゥーモン納骨堂、マジノ線ショーネンブール要塞など

 

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(ドゥーモン納骨堂の空に浮かんだ三色旗)